例えば、教科書批判の人々が「誇り」や「愛国心」を説きたい相手は、まさにパンツを売り援助交際に走る女子高生だろう。だが、慰安婦のの存在を隠蔽することで回復される「誇り」や「愛国心」が彼女たちの援助交際をやめさせるのだろうか。
このように書くとき、宮台真司などはそもそも「パンツを売ってはいけない」と親が子を叱る「道雄的[ママ 「道徳的」?]な言説」そのものが今日では作用しなくなったのだ、と分析するだろう。それは社会学的分析としては妥当である。それに同意もする。だが、そこから先はぼくと彼との立場は大きく異なる。
今日の社会における倫理の不在を指摘することは実はたやすい。「援助交際をしてはいけない」と彼女たちを叱る根拠こそが不在ではないか、という反論がただちに返ってくるだろう。だが、「叱る根拠の不在」という現状分析は、女子高生をめぐる言説と奇妙な共犯関係にある。
つまり、パンツを売っても「誰に迷惑をかけているわけでもないから」と割り切り、だから傷つくこともない女子高生像は、慰安婦はあくまでも自己責任による商行為であると強弁する教科書批判者たちの言説と瓜二つである。パンツや体を買う男のやましさを、自分の意思で屈託なく売るという女子高生像は免罪してくれるのだ。
「責任」は売る側に所与のものとして帰属せしめられてしまう。そこでは男たちはやましさの根拠となる倫理から解放されているのだ。
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大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』角川書店、2001年、415-6ページ(初出は『RONZA』1997.6) (via yanegon)
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伊藤野枝「ある男の堕落」
獄中での唯一の彼のおしゃべりの時間は教誨師の訪問を受ける時でした。教誨師は彼をしきりに説き伏せようとしました。が、博学な教誨師がいつも無学なYの理屈にまかされたのです。
「だけんど、俺がたった一つ困ったことがあったんだ。」
彼はそういって私に話しました。
「俺のような無学な者にまけるもんだから、奴よっぽど癪にさわったんだね。ある時来ていうには、『お前は、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないといったな、命令をする奴なんぞがあるのは間違いだといったなあ。だがねえ、たとえば人間の体というものは、頭だの体だの、手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関がはいっている。そのいろんな部分がどうして働いてゆくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっばりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ、動かないんだ』とこういいやがるんだ。成程なあ、俺あそんな体のことなんか知らねえから返事に詰まっちゃったんだ。すると坊主の奴、『どうだ、それに違いないだろう』ってぬかしやがる。俺あ口惜しいけれど、黙ってたんだ。すると『よく考えて見ろ、お前のいうことは確かに間違ってる』って行っちまいやがった。」
「さあ口惜しくてならねえ。こうなりゃ仕事もくそもあるもんか。俺はそれから半日、夜まで考えてやっと考えついたんだ。それから今度坊主が来た時に俺はいってやった。『俺のいうことは間違ってやしねえ。俺は無学で人間の体がどういう風に働くか知らねえが、うんと歩いてくたびれ切った時にゃ、いくら歩こうと思ったって、足が前に出やしねえ。手が痛い時にゃ動かそうと思ったって動かねえや。またいくら食おうと思って食ったって、口までは食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでも何でもかんでも頭のいう通りになるのかね。それからまたよしんば、方々で頭のいうこと聞いて働くにした処でだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴のおのれ一人の力じゃないじゃねえか。なら、どこもここも五分々々じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う』っていってやったんだ。するとね、今度は坊主の奴が黙ってしまいやがって、それから何んにもいわなかった。」
彼はいつも夢中になって話すときには、誰に向ってもそうであるように、ぞんざいな言葉でそう話しました。
「感心ね。よく、でも、そんな理屈が考え出せてねえ。」
「そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう。」http://www.aozora.gr.jp/cards/000416/files/3577_7574.html